
この連載は店長が地元の熊本日日新聞に連載中のもの。
戦後の歴史の中で、漫画が引き起こした事件を中心に
店長の人生とオーバーラップさせて解説していきます。
連載がいつまで続くか分かりませんが、どうぞお付き合い下さい。
以下、新聞に掲載された店長の略歴。
1948年熊本市生まれ。中央大学院終了。
県庁、独IUGN(国際自然保護連合)などを経て予備校教師。
古本屋「キララ文庫」店主。熊本市在住。
この漫画事件簿では、1961年から今まで、漫画がひきおこした問題をとりあげてきた。 漫画の中の過激な暴力シーンやセックス表現、 あるいはステレオタイプな黒人の描き方が子供達を暴力にはしらせ、 性犯罪を誘発し、差別意識を植えつけるとして、 これまで漫画は社会から警戒され、弾圧を受けてきた。 しかし漫画には本当にそんな力があるのだろうか。 漫画はその時代を映す鏡にすぎない。 漫画が犯罪をひきおこすのではなく、漫画はそんな時代の深部を切り取り、 子供達の心のありようを他のどんなメディアよりも早くそれを表現しているだけなのだ。
子供は漫画の中で、自分を抑圧するもの全て破壊し、 自分達の心の解放をいくらでもすることが出来る。 それがいつの世でも漫画が子供達に支持される理由だ。 しかしそれが疑似体験にすぎないことも子供は良く知っている。 現実は途方もなく厳しいものだとしっているからこそ、漫画で心のバランスを保っているのだろう。 ところが大人たちはそんな子供達の当たり前の常識に気付かず、 ひたすら子供に悪影響を及ぼすおそれのある漫画を子供から遠ざけようとしてきた。
たとえば97年には沖さやかの「マイナス」が掲載された「ヤングサンデー」(小学館)が、 PTAの厳しい指摘を受けて回収されている。 キャンプにでかけた先生と生徒が遭難し、食い物に困った先生が生徒の人肉を食べるというシーンが、 子供に悪影響を与えるとして遠ざけられることとなった。 そして2000年には、「バトル.ロワイヤル(原作高見広春・作画田口雅之)」の中の 生徒同士で殺し合いをさせる場面が、あまりにも過激すぎるとして問題となった。 これをきっかけに犯罪を誘発するような過激な内容の作品に対して、 本格的な法規制が考えられるようになった。 このまま行くと21世紀には規制地獄で 「漫画の砂漠化」がおきるかもしれない 。
これから漫画はどこへいくのか。私達はこれから漫画とどうかかわっていくのか。 漫画と社会のかかわりを現代史的に展望してきたこの連載は今回で終わるが、 21世紀の漫画を見つめていく旅はまだまだ続きそうだ。 (次回からは「オジサンの漫画道」が始まります。) (平成12年12月27日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
これまでいろんなところで漫画について話をしてきたおかげで、いつの間にか私 は漫画の「語り部」になっていた。96年、熊本放送の「オジサンの漫画道」とい う番組に出演したことがきっかけとなって、98年には熊日の「人百景」という特 集で漫画を語り始める。99年には熊日夕刊で、コミックセラピストとして「漫画 処方箋」という連載コラムを担当することになり、「漫画事件簿」として今も続 いている。医師会の会合では、知り合いのイシャに頼まれて「医療漫画の30年」 という演題で講師まですることとなった。さらにラジオでは熊本の妖怪を訪ね歩 く「妖怪案内人」としてデビュー。大学の講師やラジオのパーソナリティを始め るに及んで、漫画は完全に私の人生をのっとってしまったようだ。
漫画を語る時よく聞かれるのが「橋本さんにとって一番好きな漫画はなんです か」というものだ。そんな時は2つの作品をあげることにしている。ひとつは、 忍者漫画「伊賀の影丸」(横山光輝)、もうひとつは妖怪漫画「墓場鬼太郎」 (水木しげる)である。
忍者漫画の荒唐無稽さと、妖怪漫画のおどろおどろした感じがたまらないのだ。 そしてその2作品に大きな影響を与えているのが忍法漫画で有名な山田風太郎。 横山の影丸は風太郎の忍法小説をそのままコミカライズしたものであり、水木は 風太郎の「忍者枯葉塔九郎」を原作以上の出来で漫画化している。その山田風太 郎がこの年大いにブレイクする。
何故今風太郎なのか。それは彼の作品のなかに、私たち日本人が忘れてきたもの がいっぱいつまっているからだ。忍者達のストイックな生き方、自然に対する畏 れ、苦しいことがあっても笑い飛ばすユーモア感覚。これはまた70年代の漫画が 私達に与えてくれた感性でもあった。最近の漫画では癒されないオジサン世代が もう一度忘れ物を捜しに来た時、思い出したのが風太郎の世界だった。結局私の 人生も風太郎に始まり、風太郎で終ることになりそうだ。 (平成12年12月20日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
1997年7月、新聞の見出しをみて驚いた。23年間発行部数日本一をほこっていた 少年ジャンプ(集英社)がついに少年マガジン(講談社)に王座を明渡したの だ。かっては600万部以上あったジャンプは、目玉だった鳥山明の「ドラゴンボ ール」の連載が終了したあと急激に部数を落とした。一方、テレビ化もされて人 気急上昇中の「MMR」や「金田一少年の事件簿」をはじめとする一連の企画モノ を売りにするマガジンは、かっての部数日本一の座を取り戻すべくジャンプを急 追、ついに410万部を越えたところでジャンプを抜き去った。漫画の発行部数日 本一がこれほど大きな話題になるとは、以前では考えられないことだった。
この頃私は子どもが通っている中学校のPTA役員をしていて、生徒を対象とした 講演会の企画に頭を抱えていた。その時救世主となったのがマガジンである。当 時講談社は、質の高い漫画を世に送り出すことで漫画に対する学校や親たちの警 戒心を解こうと必死だった。
そこで考え出されたのが、学校の授業でもとりあげられるようなテーマを漫画に して、その漫画の原作者や漫画家を全国の小中学校に講師として派遣するという 企画である。もちろん講演料は不要。早速申し込んだところ、熊本では唯一私た ちの中学が選ばれた。講師は「砂漠を緑に変える」というマンガの原作者である 鳥取大学の先生。この話を聞いて自分の進路を決めたという生徒もいて、なかな か評判がよかったようだ。
他の県でも、「エイズー少年はなぜ死んだのか」、「チェルノブイリの子どもた ち」、「埋もれた楽園ー谷津干潟」、「語り継がれる戦争の記憶」、「身体障害 者とある医師の記録」(漫画三枝義浩)についての講演が行われ、確実にマガジ ンの読者層は広がっていった。こうした地道な努力が実を結び、ついに王者ジャ ンプを抜くことができたのである。
しかし目標を達成したマガジンはその後次第にマンネリ化が目立つようになる。 それと歩調を合わせるように、漫画全体がパワーを失い読者の漫画離れ、部数の 急激な落ち込みで出版界は冬の時代に突入していくことになる。 (平成12年12月13日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
1999年の10月から熊本大学で「コミック学概論」と言う講座をやっていた。そこ で生徒に最初に出したレポート課題が「漫画は終ったか」というものだった。多 くのレポートが「漫画は終っていない」というものだったが、中には「物語を創 り出すという漫画の役割はもう終ってしまった」と指摘する鋭い作品もあった。 1994年、漫画界はひとりの漫画家の発言をきかっけに騒然としていた。その漫画 家は、吐きたくなるほど面白い4コマまんがと評される「ネ暗トピア」やラッコ がでてくる動物漫画「ぼのぼの」を描いたいがらしみきお。「物語がもう終って しまったことに結論を出さないと先へは進めないわけです、作り手としては。評 論家は言ってくれない、漫画はもうおわったのだと、映画も音楽ももう終ったん だと。今残っているのはポピュラリティというか、売れるか売れないかだけにな ってしまった。」
「コミックボックス」という漫画情報誌は、いがらしのこの発言に対して寄せら れた様々な意見を載せた特集号を出している。そこに共通しているのは、「今ぼ くらの漫画が死のうとしている」という危機感だ。時間的、空間的に何処までも 広がっていく漫画、圧倒的な量の前に立ち尽くす読者。70年代、あれほど私たち を熱狂させた漫画はどこへいったのか、かってカウンターカルチャーとして世代 をまとめあげてきた漫画にはもうそんな力は残されていないのか、といった議論 が 誌上を賑わしていた。
私も漫画は80年代から90年代にかけて変質したのだと思う。かっては自分が読む 漫画はみんなが読む漫画だった。「あしたのジョー」や「鉄腕アトム」は国民的 漫画だった。ところが、いま漫画は、同人誌などにみられるように、自分だけで たのしむための個的なものになっている。そういう意味では確かに「ぼくらの漫 画」は終ったのかもしれない。
漫画がかってのエネルギーを取り戻すためには、テーマも明確で綺麗な線で描か れた漫画ではなく、テーマも何も無くごちゃごちゃにぶちこまれたカオスのよう な漫画こそが必要なのかもしれない。 (平成12年12月6日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
私が教えに行っている福岡の予備校では、 生徒の「知の扉」を開かせるために、毎年文化講演会を開いている。 この年は私が講師で「漫画葉人生にどんな影響を与えるか」というテーマで話をした。 この時生徒にアンケートに答えてもらったが、それを見て思わずうなってしまった。 まず、「あなたは漫画単行本や漫画雑誌を最近読みましたか」と言う質問に対して、 読んだと答えたのは約半数しかいなかった。受験生ということもあるが、 19,20才は一番漫画を読む世代だと思っていたので、この数字には驚いた。 以前中学生を対象に同じような質問をしたことがあるが、この時も同じような結果だった。 予想外の速さで若い人たちの漫画離れが進んでいるようだ。
当時の若者は、カラオケやゲームに時間を使っており、 この頃すでに漫画は娯楽の王座を他の媒体に奪われていた。 また「あなたは漫画によって人生に影響を受けたことはありますか」という質問に対しては、 多くの生徒が「ありません」と答えていた。 漫画は彼らにとって「時間つぶし」であり、人生に影響を与えるなどと いうおおげさなものではもはやない。 漫画は消耗品であり、彼らはそれを大量に消費しつくし、大量に捨てていくだけだ。 漫画に人生を重ね合わせ、そこから何かを学び取るということは一部の漫画好きの若者を除いて、 もうおじさん、おばさんしかやらなくなっているのかもしれない。
どうしてこんなことになってしまったのか。 私たちは、これまで「マンガ事件簿」で見てきたように、 漫画が悪書追放の対象となったり、性描写や残酷描写の反社会性を理由に いわれなき差別を受けてきたことを、自分の体験を通して知っている。 今日のように、漫画家が憧れの職業になり、 漫画が市民権を得るようになるまでに払われた犠牲を忘れることは出来ない。 ところが、今の若者にとっては、漫画は生まれたときから周りにあふれ、 漫画は教科書にも載っており、 漫画が差別されてきたことを実感として知る機会はほとんど無いといってよい。 つまり漫画は彼らにとって環境そのものなのだ。
90年代の初めに、漫画と社会が激しくぶつかりあった「有害コミック問題」もこの頃は沈静化し、 彼らにとって漫画は空気みたいなものになっていたようだ 93年に現代風俗研究会では、「マンガ環境・現代風俗 ’93」(リブロポート)の中で、 若者の漫画の読み方に地殻変動が起きていることを報告している。 漫画がいかに大量に消費され、捨てられていくか、 その実態を見せ付けられると、そのなかから、 次の世代に読み継がれて行くべき漫画をさがし、それをまもっていくことの大切さを痛感する。 それこそがコミックセーバー(古本漫画お助け人)としての私の役割だと思っている。 (平成12年11月29日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
この頃の私は、今から思えば殺人的なスケジュールをこなしていた。 福岡、小倉、福山の予備校に通い、熊本にいる時は、 明け方まで家庭教師を続けていた。 家庭にはいるとそこで暮らす家族の一人一人の様子がよくわかる。 私が担当していた生徒はそれぞれに問題を抱えていて、家庭内暴力、 無気力、ひきこもりなどどれをとっても初めての経験で対処に困っていた。 このとき大いに手助けになったのが 心理学漫画(セラピーコミック)だった。
1992年に描かれた曽根富美子の「エクスプレッション」(講談社)は、 「家族療法」がテーマだ。、「家族療法」とは、家族の中の一人が、 心の病気になった時、その原因は家族全体の中にあると考え、 家族内の悪循環を断ち切るために家族全員を対象として治療を行うものである。 家庭内暴力、拒食症、過食症、失神発作、醜貌恐怖等の症例 に対して、家族療法がこれほどの効果を持つものだとは知らなかった。 さっそくこの本を生徒やその家族に読んでもらったところ、 それだけで問題が解決したこともある。
私がコミックセラピー(漫画による心理療法)の威力を知ったのもこのときからだ。 曽根富美子は、「表情の漫画家」だ。 自分の心の危機に直面した人間は、赤ん坊のような、 あるいは老人のような、見栄や立場を捨てた、 他人に見せるためではない表情を浮かべる。 例えば、破綻すれすれの精神を抱え、 感性だけでいきている中原中也を描いた「含羞(はじらい)」(講談社)を読んでみるといい。 漫画が人の心理や表情をこれほどまでに深く描けることに驚くはずだ。
また遊郭に売られてきたその日に客をとらされ首を吊った少女と、 その妹達の数奇な運命を描いた「親なるものの断崖」(主婦と生活社) は、おそらくその表情描写の深遠さにおいて、漫画史上に残る 名作となっている。作者の故郷室蘭にある大いなる断崖「地球岬」 の前にたたずみ、作品の構想を練る曽根富美子。彼女の作品に かける情熱と執念が乗り移ったかのような鬼気迫る第一部、そして ようやく訪れるやすらかな日々を描いた第二部。1992年は曽根の才能が一斉に開花した年だった。
漫画が作品ではなく商品となり、読者が消費者となってしまった90年代にも、 室の高い作品を描きつづける作者がいる。曽根の作品を読む度に、 「まだまだ漫画も捨てたものではないな」と思うこのごろである。 (平成12年11月23日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
1990年から91年にかけて、漫画史上最も壮烈なバトルとなった「有害コミック問 題」が発生する。漫画と社会が激しくぶつかり合ったこの事件に、私は久々に燃 えた。
きっかけは、和歌山県田辺市でおきた。漫画における性表現があまりにも露骨す ぎるという報道を聞きつけた主婦達は、書店に並んでいる青年誌を読んで驚愕す る。問題となったのは小学館のヤングサンデーに連載されていた遊人の「ANGEL 」だった。これは、エッチな少女を主人公にした学園モノだが、絵柄がかわいく てしかもエロチックということで人気があった。この作品が大人だけが読む青年 雑誌に載っていたのならば、これほど問題にはならなかった。問題は、ヤングサ ンデーが中・高生以上を対象にした若者向け雑誌だったことだ。漫画の性表現が あまりに野放しにされていることに怒った主婦達は「コミック本から子供を守る 会」を結成。有害コミックを法律で取り締まるように、国や県に要望する署名運 動を展開する。これを受けて県と田辺市では、出版社に有害コミックの販売自粛 を申し入れ、「ANGEL」は休載、単行本も回収された。同様の動きは他県にも広 がり、セックスを露骨に描いた他の作品も次々と有害図書に指定されていった。 一旦火のついた有害コミック狩りは留まるところを知らず、有害指定を受けてい た本を販売していた書店主が、事前の勧告や警告を受けないままいきなり逮捕さ れるにおよんで、事件はきな臭い方向へと進んでいく。
これに対して作家サイドは、国家権力によって表現の自由が奪われるとして激し く反発し、「コミック表現の自由を守る会」を結成。私もこの会に早速入会し、 法規制の中止を求めて署名活動をおこなった。こうしてこの問題は全面戦争へと 突入していき、1993年に一応の決着がつくまで、連日雑誌やテレビで論争がくり ひろげられる。
漫画における表現の自由と法規制、出版社の自主規制の問題点、 依然として残る漫画への警戒心と偏見。これほど真剣に漫画が語られたことはな かった。この時の論争の記録を読み返すと今でも胸が熱くなる。 (平成12年11月16日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
最近の森首相の軽率な発言が、国民のひんしゅくをかっているが、 10数年前にも同じような事件があった。 88年、当時の首相だった中曽根康弘が、 アメリカのマイノリティを侮辱する発言があり、同じ頃、渡辺政調会長が、 アメリカの黒人を侮蔑する差別発言を行っている。 また、東京のそごう百貨店に展示された黒人をモデルとするマネキンが、 悪意をもって歪曲されているという「ワシントンポスト」の記事がきっかけとなって、 人種差別問題が世間を賑わせることとなる。
この問題は、子供向けの物語や絵本にも及び、 「ちびくろサンボ」が黒人差別を助長するとして絶版に追い込まれ、 「白雪姫」が肌が白く、目がぱっちりの白雪姫を美人とするのは、白人優位思想の現れとして問題になった。
89年にはこれが漫画にまで飛び火する。境の「黒人差別をなくす会」は、 藤子不二夫の「オバケのQ太郎」の「国際オバケ連合」に登場する腰蓑スタイルの黒人オバケが、 「人喰い人種を連想させる表現まであり、黒人への偏見を煽る」と指摘。 小学館側は「黒人差別に繋がる表現があった」として、単行本の発行を中止した。
そしてついには、1990年に漫画界の良心といわれた手塚治虫の漫画が槍玉にあげられる。 「黒人差別をなくす会」は、手塚作品にも黒人差別が濃厚であるとして 手塚作品を出版する数社に内容証明郵便を送りこれが週刊誌にとりあげられて、 世間の注目を集めることになる。この記事によると、 「ジャングル大帝」における黒人の描き方がステロタイプで 差別と偏見を助長しているというもので、このような作品での営利行為は停止し、 問題を改善するようにというものだった。結局、作者がすでに亡くなっていることもあり、 「この本にはこういう問題がある」という解説文をつけることで出版は続けられることとなった。
たしかに手塚の作品にも、類型化された絵の中に差別意識が潜在しているかもしれないが、 だからと言って、作品の全存在を否定するようなやり方はやはりおかしいと思う。 作品は一つの時代の反映であり、それを、できるだけ忠実な形で残すことが、何よりも大切なことだからだ。 (平成12年11月8日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
1989年。この年を私達漫画世代は永遠に忘れないだろう。 2月9日、漫画の神様手塚治虫、胃がんのため死去。享年60歳。 あまりにも早すぎた死。悲しかった。 地団太踏みたくなるほど悔しかった。この日私は、飲めない酒を思いっきりあおった。 翌日からテレビ、ラジオではすさまじいばかりの手塚追悼特番が始まる。 新聞、雑誌でも特集が組まれ、海外のマスコミでも大きくとりあげられた。
一人の漫画家の死はその後、さまざまな社会現象をひきおこしていく。
球団のペットマークにジャングル大帝のレオを使っている西部球団では、 試合前に前選手が黙祷。西武鉄道でも全社あげて弔意を表明。 新宿で絶賛上演されていたミュージカル「火の鳥」は急遽追悼公演に切り替えられ、 多くのファンがおしかけた。2月24日の「大喪の日」には、 アトムやマグマ大使など手塚の生んだキャラクターの扮装をした手塚ファンが山手線に乗り込む。 3万2千にもの警備陣が動員されている戒厳令かさながらの東京で、「鉄腕アトムは愛と平和の 象徴」というスローガンが印象的だったさらにこの後、「手塚に国民栄誉賞を」という声があがり、 「2月9日を治虫忌として国民の休日に」という運動も広がっていく。 まさに手塚で始まり、手塚で終った年だった。
手塚が逝って10年。この間、あれほどのインパクトを与えた手塚の死も風化しつつある。 今の漫画を読んでいる若者達は、もう手塚を知らない世代だ。 10年前、高値を呼んだ手塚漫画も値崩れし、 キララ文庫においてある手塚全集も売れなくなった。
しかし、私達は、彼が渡してくれたバトンを次の世代に伝えなくてはならない。 人間が本来持っている暖かさ、本当の正義の尊さ、夢と憧れと希望。 手塚が漫画を通して伝えようとしたことを、こんな時代になってしまった今こそ、 21世紀を担う若い世代に受け継いで貰いたいと思っている。 (平成12年11月1日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
好景気にわく日本経済に反して、この年教育現場はますます混迷の度を深めていた。 相次ぐ校内暴力、いじめによる自殺、、教師の体罰 など暗いニュースが続く。そんな時、この荒廃した教育を,漫画の力で変えようという作品が登場する。
江川達也は東京教育大出身で、教師の経験もある漫画家である。 彼は戦後の教育をだめにした一番の責任は団塊の世代に属する親達にあると考えていた。 食べるものも身の回りのものも満足になかった生活が,すこしづつ良くなっていったという経験をもつ団塊 世代。 そんな成長神話の持ち主である彼らを支えていたのは「いい大学さえ出れば,いい生活が待っている」という学歴信仰だった。 そのために、自分の子供の尻を小さいときからたたきつづけ、子供達はそれに耐え切れずに、いじめや暴力に走るのだと江川は考えていた。
そこで85年に,江川は「BE FREE](講談社)を発表する。「学校はもはや若者を教育するところではなくなっている。 いまじゃいい学校を出ても幸せになれるとは限らないよ」と,江川はこの作品で訴えたが、 その声は文部省や親にヘッドギアをかぶらされている若者には届かなかった。 ついで江川は、学校神話が刷り込まれる前の幼い子供たちを対象に、 88年から「まじかるタルるートくん」(集英社)の連載を開始する。 「学校の勉強よりも面白いものがいっぱいあるよ」という作者のメッセージを伝えるために描かれた作品だったが、 これがアニメ化されるに及んで,そのメッセージ色は吹き飛ばされてしまった。
そして最後に,団塊世代の母親にむけて描かれたのが「東京大学物語「(小学館)。 「学歴信仰の最高峰である東大の実態は、こんなにもひどいものですヨ」ということを伝えるために、セックスにとりつかれた 東大生を露悪的に描くが、あまりにも過激に走りすぎたせいで、母親の心を変えることはできなかった。 こうして、漫画で教育を変えようという江川の実験は失敗に終る。
しかし、あの時、すこしでも若者や親達が江川の主張に耳を傾けていれば、 今のようなひどい教育状況にはならなかったのにと思うと、残念でならない。 (平成12年10月25日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
1985年に始まった円高不況をあっという間に乗り切った日本の 経済は急激な膨張を始め、バブルの時代に突入していく。漫画の 世界でもバブル化が進み、単行本の発行部数が一億冊を越える作家も現れるようになった。 一方、漫画の国際化も始まり、日本でヒットした作品が次々に英訳され、 日本は経済でも漫画文化でも世界を席捲するようになる。
最初にアメリカ向けに英訳されたのがさいとうたかをのゴルゴ13。 しかしこれはうけなかった。ストーリーはハリウッド映画顔負けの内容なのに、 どんな場合にも全く表情を変えない主人公が気味悪がられたようで、 英訳企画は数点で打ち切られた。なにしろゴルゴはいままで一度も怒った事も無ければ, 笑ったことも無いのだから、喜怒哀楽をすぐむきだしにするアメリカ人に読ませるには やはり無理があったのかもしれない。 もっとも、今ではこの本がマニア垂涎のまとになっているのも皮肉な話だ。
次に英訳されたのが、前回紹介した石ノ森章太郎の「マンガ日本経済入門」。 元気の無いアメリカ、元気あふれる日本、その違いはどこからくるのか、 それを知りたくて多くのアメリカ人がこの本を読んだそうだ。 この本せいかどうか知らないが、5年後日米の立場は逆転する。
そして思いもよらなかった作品が、この年アメリカでヒットする。 小島剛夕の「子連れ狼」と、白土三平の「カムイ伝」。 日本の時代劇は、サムライやニンジャがでてくるのでイースタンものとして、 それまでアメリカでは結構人気があった。 それに加えて、ショー小杉主演のニンジャ映画がヒットしたこともあって、 この2作品に注目が集まったようだ。もっとも、この動きは作者にとっては不本意だったそうだ。
当時のことを作者の小島氏に聞く機会があったが、その時氏は、次のように語っている。。 「漫画を英訳する時の最大の問題は、本を右閉じから左閉じにするため、 左右を反転させなければならず、これが作品全体の雰囲気を壊してしまうことです。 時代劇漫画でこれをやると、例えば刀で斬る時の左右のバランスがどうしてもおかしくなり、 スカッとした爽快感が感じられません。漫画が死んでしまうのです。」 ここには、漫画の国際化のために避けて通れない問題があるようだ。 私はやはり漫画は右閉じでなくっちゃと思っているのだが。 (平成12年10月18日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
私の父親は40歳を過ぎた頃から急に病弱になり、熊本中のいろんな病院を転々としており、 看病の合間に漫画の話しをよくしていた。父が好きだったのは、松本かつぢという漫画家だったが、 「昔の漫画は夢があってよかった。今の漫画はあまりにテンポが速すぎてついていけん。」とよく言っていたが、 このセリフを父と同じ年になって実感している。その松本が86年5月になくなったとき、 「今度は俺の番ばい」と言った父の言葉を思い出す。長年つれそってきた母をなくし、 友をなくした父にとって、一人の漫画家の死はけっこう重かったようだ。
この年、私も長年の無理がたたって入院することになる。胆石の摘出手術のため、 初めて20日も世間から隔絶された時間を過ごした。術後の痛みもうすれると、 一日がどうしようもないほど長く感じられる。そんな時、隣のベッドにいた子供と良く話していた。 漫画が大好きな彼は、実にいろんな本を持っていた。ところが、そのどれもが私が知らないものばかり。 いわゆる「ゲーム系マンガ」と言う本で、ゲームを全くやったことがない私にとってはチンプンカンプン。 世代間格差と言う奴をこのときほど感じた時はなかった。 自分達の世代こそが、漫画の草創期からずっとつきあってきたと言う思い込みがいけなっかた。 知らない間に漫画は進化(?)していたのだ。
1985年はソ連にゴルバチョフが登場し、アメリカでビルゲイツがマイクロソフト社をたちあげた年。 後でふりかえると、この年を境にそれまでの社会システムが一変している。漫画も例外ではない。 86年にベストセラーとなった石ノ森章太郎の「マンガ日本経済入門」は、それまでの漫画の常識を破るものだった。 エンターテイメントの要素を漫画から取り去って、情報を提供するメディアに変質させたのだ。 その結果、この本は大学の経済学部のテキストとして使われるようになり、 世界各国でも翻訳されて、マンガのイメージを一変させる。このころから、 私達の世代はマンガから完全に離れていく。(私は別だが) (平成12年10月11日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
梶原一騎、マンガ界に今も燦然と輝く星。 マンガ原作者の草分け的存在で、1960年代のマンガ黎明期から70年代のマンガ黄金期、 そして80年代のマンガ後退期をとおしてつねに第一人者だった梶原。 彼は、「チャンピオン太」、「巨人の星」、「あしたのジョー」、「愛と誠」、「柔道一直線」、 「プロレススーパースター列伝」、「空手バカ一代」等マンガ史に残る名作を次々に生み出した。 日本のマンガ文化が、世界のトップレベルまでになったのは 梶原一騎と手塚治虫の二人がいたからだと私は思っている。
しかしその栄光の陰に、梶原は大きな悩みをかかえていた。 高度経済成長期には、かれのイケイケ路線はぴったりだった。 根性で困難を乗り切り、思いっきり泣かせ、読者を力づくで梶原ワールドにまきこんでいく。 あのころ彼は、確かに時代と共にあった。 「巨人の星」で星飛雄馬が投げた大リーグボール2号がバッターの所に届くのにかかる2週間が、 私には永遠に続くかのように思えたものだ。
しかし時は移り、時代に合わなくなった彼の作品は次第にあきられ、 ヒット作も少なくなっていく。そんな中で1983年、ストレスをためまくった梶原は、 酒の勢いも手伝って少年マガジンの編集者に暴行を加え傷害事件をひきおこしてしまう。 それまで、梶原の威光におそれをなして、彼の横暴な態度に我慢を重ねてきたマンガ出版社は、 一斉に梶原攻撃のキャンペーンを開始。梶原作品とともに青春時代を送ってきた私にとって、 ここまでやらなくてもいいのにと思えるほどのえげつない攻撃だった。そして彼は病に倒れ、 その名はマンガ界からしばらく忘れ去られててしまう。
そして1985年、彼は奇蹟の復活をとげる。どの雑誌も見放した彼を拾ってくれたのが漫画ゴラク。 そこで彼の自伝的作品「男の星座」の連載開始。それまでの自分の人生の全てを、 全エネルギーをかけて表現するという意気込みにあふれた作品だった。 そして物語が最高潮に達した87年、彼の人生と共に作品も未完のまま終る。
自分の命をかけ漫画を描きつづけた彼の姿を思い浮かべる時、私は今も涙が止まらなくなる。 しかし今の漫画家や原作者とくらべてみても、そこまで漫画に人生をかけられるというのは、 今思えば幸せな死に方だったのかもしれない。 (平成12年10月4日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
かって三島由紀夫の小説「宴のあと」が、実在の人物を無断でモデルにしたことから、 作家と出版社が訴えられたことがある。 この時裁判所は、正当な理由なく私事を公開することは許されないとして、 初めてプライバシー権を認めている。 これと同じような事件が1984年に漫画についても起きた。
少年マガジンに連載されていた塀内真人の「海よお前は」は、 石垣島空港建設反対運動に関わる少女の話である。 最初空港建設に反対していた主人公の少女は、 自分の命をかけて嵐の海に飛び込んで海を守ろうとするが、 建設を推し進める若き技師に命を助けられる。 この時から少女の心に微妙な変化が生まれ、 最後には空港建設も仕方がないという立場に変わっていく。 これが空港建設阻止委員会の目にとまり、作者と出版社に公開質問状が送られた。 それによると、この作品には、実在のモデルがいて、 その人に断りも無く作品を発表したのは、名誉毀損と人権侵害にあたるというものである。 結局出版社が、謝罪文を雑誌に載せ、 モデルとなった少女およびその両親に謝罪の手紙を書くということで決着がついた。 この事件が報道された時の印象は、モデルとなった少女の意思よりも、 事件が政治的に利用されたのではないかというものだった。
しかしよく考えてみると、もはや漫画はかってのように子供だけを 対象にした媒体ではなくなっており、その影響力はとてつもなく大きいものに なっていることを忘れてはならない。 発行部数が少ない時には、大目に見てもらえたなにげない差別や人権侵害も、 漫画雑誌1誌で400万部も発行される現状ではもはや許されなくなってしまったのだ。 それだけに、作者も出版社も人権や差別に過敏にならざるをえず、 それがますます漫画のもつアナーキーな部分を削り取っていく。
漫画がこれまでやってきた様々なタブー破りが、 漫画の活力となったのが70年代だとすると、 その活力のせいで漫画の表現に厳しい規制がかけらたのが80年代ということができるだろう。 こうして漫画表現はますます動きのとれない規制地獄に陥っていくのだった。 (平成12年9月27日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
私の本業は予備校講師。 生徒の全体像がよく見えるように、英・国・社(地・歴・公民)の文系科目すべてを教えている。 何でも教えられなくてはこれからの教師はつとまらない。 教師の多能工化がこれからの教育には必要だ。
この仕事を始めたのが1983年。それ以来ずっと、漫画をベースに授業を展開している。 私の知識のほとんどは漫画で得た雑学だが、これがなかなか役に立つ。 また、漫画の影響で、やたらと大げさに表現したり、途中に「ジャーン」という擬音がはいったり、 オヤジギャグの連発で生徒を凍えさせたりで、全く漫画そのものの雰囲気だ。
漫画が始めて入試問題にとりあげられたのは、1977年の花園大学の国語で、 ジョージ秋山の「浮浪雲」(小学館)が題材だった。このときには私も驚いた。 今まであれほど教育界で目の敵にされていた漫画が教材になるとは。 しかしよく考えてみると、漫画ほど論文の題材として相応しいものもない。 国語では登場人物の心理描写をどうとらえるかが重要なポイント。 漫画では登場人物の心理は、例えば焦りを現す時の額の汗、落ち込んでいる時の顔の縦線、 何かが閃いた時の顔の輝きで見事に表現されている。 この頃から漫画は次々に教材として使われ始める。
手塚治虫や矢口高雄の漫画付エッセイや、西岸良平の4コマ漫画が中学の教科書にでているのに気付いたのは、 家庭教師をしている時だった。生徒にとっては漫画が教科書に載るのは当たり前のことだが、 漫画弾圧の時代を知ると私にとっては隔世の感がある。同時に漫画がどこかよそよそしくなって、 遠くにいってしまった感じがしたものだった。 この他、歴史の学習には、集英社の「漫画世界の歴史」、 小学館「漫画日本の歴史」がおすすめ。 時代の流れを大まかに知るには、漫画は大きな力を発揮する。 地理の勉強には、さいとうたかを「ゴルゴ13」は不可欠。 いながらにして世界のいろんなところで起きている問題を知ることができる。
ともかく1980年頃を境に、漫画はサブカルチャーからメインカルチャーの仲間入リを目指し始めるが、 まだまだ世間の風当たりは強いようだ。 (平成12年9月20日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
初めての子供向け週刊誌少年サンデー(小学館)・少年マガジン(講談社)が発行されたのが1959年。 それから63年には少年キング(少年画報社)、68年に少年ジャンプ(集英社)、 69年に少年チャンピオン(秋田書店)が創刊され、「少年誌5誌体制」が今でも続いている。 1980年の新年特大号は5誌あわせて1000万部を突破し、出版界の大きな話題となった。 中でも少年ジャンプの売れ行きはすさまじく、1誌で300万部を越えている。 ジャンプ独走の流れに待ったをかけたのがチャンピオンで、 山上たつひこの「がきデカ」や手塚治虫の「ブラックジャック」が載っていた頃のチャンピオンは、ジャンプを超えたこともある。 82年になると、チャンピオンの勢いも失われてしまったので、 起死回生の策として「ロリコン路線」が導入された。
この頃、アメリカで起きていたロリコン写真ブームに目をつけた出版界は次々にロリコン雑誌を創刊していた。 82年の漫画ブリッコ(白夜書房)、86年の「漫画ロリポップ」(笠倉出版)はとくに有名で、 後の美少女系同人誌のルーツとなる。 こうしてチャンピオンではじまったロリコン漫画が内山亜紀の「あんどろトリオ」。 オムツをしたかわいい幼女が、姿態をくねらせてポーズをとり、おしっこまでもらしてしまうという、 なにやらあやしげな話だが、絵そのものは至って健康的で明るい漫画だ。 しかしこれが少年誌に掲載されたことが問題となった。チャンピオンには、 もうひとつ吾妻ひでおの美少女キャラクター漫画も載っていたので、特に目立ったようだ。 当時の評論家たちは、「このようなロリコン漫画が、虚構の性をもてあそぶ青少年を増やし、 それが彼らの心を蝕み、ひいては犯罪に結びつく」と警告していたが、それはあまりにも短絡的な考えではなかろうか。
過熱するロリコン漫画ブームに対して、今度は女性達が声をあげる。 「国際婦人年をきっかけとして行動をおこす女たちの会」では、 漫画における性表現が「女性の尊厳をいちじるしく傷つけている」として抗議。 また、アニメ化された「まいっちんぐマチコ先生」が、 女性に対する差別に満ちているとして、京都で抗議運動がおこなわれた。 さらにこの問題は国会に飛び火する。衆議院の予算委員会では、 漫画におけるいきすぎたセックス記事を規制するための立法化が検討された。 出版社があわてて自主規制にのりだしたので、立法化は見送られたが「お上」に弱い体質があきらかになった。 このとききちんと出版界も国も対応しなかったので、90年になって、有害コミック問題として再燃することになるのである。 (平成12年9月13日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
1980年は最低の年となった。 事情があってそれまで勤めていた大学の教員を辞め、フリーの身分となる。 仕事を探すため職安に通い、やっと見つけた仕事が競輪場の交通整理係り。 一日立ちっ放しで5000円。数年前までは、ドイツの国際機関で、 一ヶ月の給料が100万円もらっていたのがうそのような話だ。 でも今はその5000円も大切なお金だった。 日当たりの悪いところに住んでいたので、家の中にキノコがはえてきてしまい、 松本零士の漫画にでてくる「男おいどん」そのもの暮らし振りだった。 さらに追い討ちをかけるように母親が急性白血病で亡くなり、精神的にもどん底状態。 そんな時、私を支えてくれたのはやはり漫画だった。
手塚治虫や白土三平の漫画は、80年代には儲かってのパワーを失っていた。 かわってこの年大ブレイクしたのが大友克洋。サイコホラーの傑作「童夢(双葉社)」は、 かわいた白っぽい感じの作風が時代にマッチしたのか、またたくまにベストセラー。 同年には「気分はもう戦争」( 双葉社)、82年には大友克洋の最大傑作「AKIRA」が 出され、 大友ブームが巻き起こる。 そのあと、大友の模倣作品が次々に描かれるようになり、 当時はそれらの漫画を、ニューウェイブコミック と読んでいた。これらの作品達に、当時の私はいくらかの違和感を覚えながらも、 随分力づけられたことを覚えている。
またこの年は、漫画評論が大流行。 私のように漫画を捨てきれない一部の大人たちが一斉に漫画を語り始めたのだ。 米沢嘉博「戦後少女マンガ史」「戦後SFマンガ史」(新評社)は、 これまでのマンガを書誌学的に体系化した力作だ。 三流劇画ムーブメントで熱くエロマンガ論を語った論客たちは、 「螺旋」(東考社)に集まり、竹内オサムは初の本格的な「児童漫画研究」を発表する。 私は、どん底のいきづまりから抜け出そうと、 石子順造が主宰する「漫画主義」にはじめての評論を載せたが、 あまり出来がよくなかったのか、この雑誌はまもなくつぶれてしまう。 こうして80年代は、ニューウェイブコミックと漫画評論で幕を開けたが、 それはまた、漫画というメディアが「作品」から「商品」へと新たな変身を始める予兆でもあった。 (平成12年9月6日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
私が地元の熊本大学を卒業したのは1971年。 大学紛争に挫折し、不完全燃焼のまま8年が過ぎていた。 この間、県庁職員、国際機関職員、大学教員と転々と仕事を変えていたが、 大学時代に大きな衝撃を受けた水俣病への関わりはずっと続いていた。
熊大で学生が中心となって公害についての自習講座が始まったというニュースがとびこんできたのはこの頃である。 早速私もこの講座に参加する。 ここでは、水俣病を初めとして、登呂久鉱害、カネミライスオイル中毒事件、 三池一酸化炭素中毒など九州でおきた公害事件を自分達の足で調べ、 それを記録に残すために、本当に精力的に飛び回ったものだ。 このときわれわれの原動力となったのが漫画だった。 自主講座の機関紙「僻遠」の冒頭に、白土三平の忍者武芸帳の有名なセリフが載っていた。 「われわれは遠くから来た。そして遠くへ行くのだ。」 権力の象徴である織田信長に対抗して戦いつづける忍者影丸に、 私達は自分を重ね合わせていた。自主講座のメンバー一人一人が信長と戦いつづける影一族だった。
その拠点として、私達は熊大の中に法文ボックスという部室を使っていたが、 それが取り壊されることとなった。大学側の再三の立ち退き要請にもかかわらず、 「不当な明渡し請求には応じない」という理由でそのままいすわったのでこの年、 学生と大学は激しく対立することとなる。そんな騒ぎのなかで、私達は法文ボックスで、 漫画をよんで公害の学習をしていた。 「漫画が公害をどのようにとりあげてきたか」というテーマで私が選んだのが次の4冊だ。 山上たつひこ「光る風」(朝日ソノラマ)、バロン吉元「柔侠伝」( 双葉社)、 ジョージ秋山「銭ゲバ」(若木書房)、手塚治虫「ブラックジャック」(秋田書店}。 なかでも学生達に最も人気があったのが山上たつひこの「光る風」だった。 原因不明の奇病に悩まされる藻池村の住民達。引き裂かれる村の共同体。 そこにしのびよる国家権力の影。この作品は1970年に書かれたものだが、 時を経ても色あせることがない。このときに読んだ漫画の印象はいまでも強烈なトラウマとなって、 その後の自主講座のメンバーにおおきな影響を与えているそうだ。
バロン吉元の「柔侠伝」も人気があった。 暗い雰囲気の漂う「光る風」の主人公にたいして、 「柔侠伝」の主人公の柳勘一はとにかくめっぽうあかるい。 舞台が熊本ということもあって、勘一への親近感もたかく、三池闘争、 水俣病闘争が出てくるところでは、 まるで自分達が闘争に参加しているような気分にさせられたと学生達は語っていた。
漫画がこれほど読者と一体感をもって読まれるのを見のは初めてだった。 法文ボックスから私達を追い出すために、大学の教職員が次々に訪ねてくる。 そんな緊張感あふれる空間で読んでいた漫画だからこそ、 いまでも忘れられない存在になっているのだろう。 こうして漫画が、その後の人生にまで影響を与えつづけた時代は、 70年代の終わりとともにうしなわれていくのである。 (平成12年8月30日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
1970年を前にして挫折してしまった、団塊の世代がこの年久しぶりに燃えた。 革命とか世直しとか言っていた若い頃の情熱もすっかり影をひそめ、日々の暮らしに追われる30歳。 そんな私達はさすがに少年漫画は読まなくなっていたが、いまだに漫画を手放してはいなかった。
ある友人は、「花の24年組」に代表される少女漫画の世界にはまり、 またある友人は、エロ劇画にのめりこんでいった。 エロ劇画が私達の支持を得たのは、そこで漫画の編集にあたっていたのがわたしたちの同世代だったからだ、 彼らは、エロ劇画という日陰者扱いされてきた分野に光を当て、堂々とその存在意義を主張していた。 当時、相変わらず劇画の主流だった梶原一騎作品に対抗し、彼らはエロ劇画のことをみずから三流劇画と称していた。 そして劇画が時代を創っていくという自負心をこめて、このエロ劇画ブームを、「三流劇画ムーブメント」とん名づけ、 様々なしかけをしていくことになる。
当時、エロ劇画誌は40〜50誌はでていたが、 そのなかでも代表的な雑誌が、”御三家”といわれた「劇画アリス」(アリス出版)、「漫画エロジェニカ」(海潮社)、 「漫画大快楽」(檸檬社)で、雑誌の編集者がテレビや雑誌に頻繁に登場し注目をあつめていた。 「劇画アリス」の編集長亀和田武は、テレビ番組のなかで、こういっている。 「われわれ自身も知りえなかった無意識の領域を掘り起こし、 想像力を喚起するーこれこそが言葉の本質的な意味でのエンターテインメントであり、 劇画の快楽なのだ。」まるで学園紛争のころのアジ演説のように、意味不明だったが、 異様な迫力があったことをおぼえている。
エロ劇画のなかでは、鬱屈した性への妄想が画面に視覚化され、 その技法も回をおうごとにエスカレートしていく。通常の流通ルートに載らない雑誌が多かったのでそこはまさにやりたい放題の無法地帯。 ただそれが下品な作品にならなかったのは、漫画家たちの突出した力量によるものだろう。 等質でリアルな線で女を描いた榊まさる、ザラついた画面に女の官能を描いた 石井隆のような実力ある作家に支えられてこのブームは、2年あまりつづいていた。 そうしたときに、「漫画エロジェニカ」が警視庁防犯部によって、「ワイセツ文書」として摘発されるという事件がおきる。 マスコミで我が物顔で発言していたことが、お上のカンにさわったらしいのだが、そあとの出版社の対応はいかにも情けないものだった。 あれほどエロ劇画の素晴らしさをほめたたえていた編集者は、警察に対してひたすら恐れ入るばかりで、 久々の裁判闘争を期待していた私達は拍子抜けしてしまった。
「今回の摘発で700万円の損害がでてしまった。ここでさらにお上にたてつけば今度こそ会社がつぶれてしまう」という編集者のコメントの、 700万円という数字がやけにリアルで悲しかった。そしてまもなく、エロ劇画ブームも終わりを告げるのである。 (平成12年8月23日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
この年私は、ドイツのボンにいた。 日本の環境政策を海外に紹介するために1年間、国際機関(IUCN 国際自然保護連合)で仕事をしていたのだ。 この間、ヨーロッパ漫画の旅をとおして私は、日本の漫画を,初めて外から眺めることができた。 まずドイツに行く前に,バンコクに立ち寄った。町のあちこちで日本の漫画が売られていた。 とはいっても、30ページ位の薄い本のなかにいろんな作品がごちゃごちゃに載っていて,国籍不明の海賊版がほとんど。 突然違う話が始まったり、コマがとんでいたりでマトモな本は見あたらないが、それでもよく売れていた。 この頃日本の漫画は、急速にアジアに広がっており、漫画の国際化が70年代後半には始まっていたようだ。 そんな日本の漫画を子供の頃読んでいた人たちが,今では自分でオリジナルの漫画を描くようになった。 今のアジアンコミックブームは、日本発の漫画文化を、20年かけて自国の文化にあうようにつくりかえていった努力のたまものである。
ところが、ドイツでは、日本の漫画はほとんどみられなかった。 というよりも,この国には元々漫画文化が育っていないようだ。 本屋にはアメリカのスーパーマンやバットマンのドイツ語版がパラパラとある程度で、漫画そのものの数が少ない。 やはりこの国は活字文化の国なのだろう。あるいは、漫画はこの国では,教養のない子供の読む俗悪 本にすぎないのかもしれない。
これに対して、フランスは全くちがっていた。 パリにいくと漫画専門店がいくつもあり,有名な漫画家が個展を開いていた。 日本の漫画家に影響を与えた漫画家も多い。たとえば、「アキラ」で世界的な漫画家になった大友克洋や、 「坊ちゃんの時代」で新境地を開いた谷口ジローがメビウスの影響を受けたことは有名な話だ。 ここでは、漫画家は芸術家の仲間であり、漫画家の社会的地位が日本とは比べ物にならないくらい高いのだ。
日本の漫画は、たとえば平田弘史のような、大胆な構図の時代劇漫画が高い評価を受けていた。 ところで仕事先の国際機関では、様々な国のひとが働いていたのでどんな漫画が受けるかを聞いてみたことがある。 同室のベトナム人フックさんは、家族の話が良く出てくる藤子不二雄の漫画、特に「ドラえもん」がお気に入りだった カナダ人のミッチェルさんは日本の文化に対する関心が高く、鋭い質問を浴びせられた。 彼女が「日本では漫画を子供だけではなく、大人もよんでいるそうだが、 日本人はどうしていつまでも大人にならないのか」ときいてきたことがある。これに対して,私はこう答えた。 「日本では、1000年も前から、絵巻物とか戯画という形で漫画は重要な文化のジャンルとなってきた。 漫画は日本人にとって文字とおなじような重要な役割を果たしてきたもの。 アメリカのように子供だけが読むものとは限らない。漫画は立派な大人の文化なんだ。」
1年間のドイツ滞在は、私に日本の漫画が世界的に見て,かなり特殊な文化であること、 ただ共通の文化背景をもつアジアではそれが急速に受け入れられていることを体験した。 あれから23年。はたしてどれだけ日本の漫画は世界に受け入れられただろうか。 マスコミがいうほど状況はあまり変わっていないように思うのだが。 (平成12年8月16日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
かっては、日の出の勢いだった漫画出版界の元気がない。 雑誌は発行部数の半分も売れず、単行本の発行部数も激減。 藁をもつかむ思いの出版社は、かってのヒット作品のリバイバル作戦にのりだした。 70年代後半から80年代初めに爆発的な人気を博したゆでたまご「キン肉マン」、 車田正美「リングにかけろ」、バロン吉元「柔侠伝」、平松伸二「ドーベルマン刑事」、 高橋よしひろ「銀牙」が一斉に復活。本屋の雑誌コーナーに行くと、 まるで20年前にタイムスリップしたような感じがする。 この頃の読者を引き戻し、あわせて新規の読者を開拓しようという試みだが、 道を見失った漫画界が、漫画の原点にもどろうとすれば結局、 70年代の漫画の作品力にたよらざるをえないのだろう。
ところが、リバイバルではなく、1976年から今も続いている作品が3つある。 スーパーマンのように、何人もの作家によってひとつの作品が描きつづけられることはあっても、 一人の作家が、これほど長期間にわたって連載を続けることは世界的にみても例のないことだ。 1月には「花と夢」(白泉社)で美内すずえの「ガラスの仮面」がスタート。 作者によれば、この作品が始まったときに生まれた子供が 今では母親になっているそうだから時の流れは本当に速いもの。 お話は幻の戯曲「紅天女」を演じるのは誰か、という究極の演劇ロマンで、 演劇関係者からも高い評価を得ている。 私がやっているキララ文庫では、同名のよしみで「劇団きらら」の公演パンフに広告を載せてもらっているが、 この劇団員が「ガラスの仮面」をうちによく買いにきていたことからも、作品の質の高さがよくわかる。 10月には「プリンセス」(秋田書店)で細川知栄子の「王家の紋章」が始まっている。 現代と古代の3000年の間を、めまぐるしくいったりきたりすることから、 「ジェットコースター漫画」といわれている心沸き立つ作品だ。 これも本当に長い。そしていつ終るかも見当がつかない。
そして極めつけは、10月に「少年ジャンプ」で連載が始まった 秋本治の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(通称こち亀)。 連載が始まって以来一度も休むことなく描きつづけ、ついに単行本120巻をこえてしまった。 これは連載漫画の巻数としては、世界にも例がない新記録で、当分は破られることはないだろう。 こち亀は、当初は山上たつひこの「がきデカ」をパクった警官ギャグ漫画だった。 (デビュー当時のペンネームは山上のパクりで山止たつひこ)。 それがいつの間にかゲーム、フィギュア、パソコンなどのマニア必読の情報漫画となった。 キャラクターも実に多彩で、ほろリとさせられる人情モノの人気も高い。 「遠い放課後」は何度読んでもなかされる名編だ。
長期連載漫画はこの他にも、昨年まで単行本の巻数が 日本一だったさいとうたかおの「ゴルゴ13」(連載開始は1969年)、 連載が漫画雑誌ではなく一般週刊誌なのであまり知られていないが、 巻数では第3位の神江里見「弐十手物語」等がある。では、連載期間日本一はなにか。 1964年に連載が始まった白土三平の「カムイ伝」も長いが、もっと長いものがある。 1958年に始まり、42年たった今も続いているのが小島功の「仙人部落」(週刊アサヒ芸能)。 手塚の「鉄腕アトム」以前にアニメ化もされており、まさに漫画の最長寿作品といえる。
こうしてみると、日本の漫画文化はその量もさることながら、 その息の長さという点からも、もっと評価されてもいいのではないか。 そしてその始まりはやはり70年代にある。安易に70年代を懐かしむのではなく、 あの頃私達がもっていた「ひたむきさ」を取り戻すために、 もう一度この頃の漫画を見つめなおすことが必要なのではないだろうか。 (平成12年8月9日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
私は予備校講師とは別に、熊大の近くでキララ文庫という古本屋を13年間続けている。 最近は店売りがパッとしないので、インターネットで昔の漫画を売り始めた。 最初は1970年の頃の少年漫画が良く売れた。 永井豪、ジョージ秋山、松本零士、藤子不二雄、水木しげるの ようないわゆるプレミア作家は、ネットに載せるとすぐに反応があった。 ところが、最近はすっかり価格が上がりすぎてしまい、市場が ひえきってしまった。
それに代わって、急速に売上げを伸ばしているのが少女漫画。 それも1975年の頃の本が何故か注目を集めている。 この年の何が2000年の今に影響を与えているのだろうか。 それはおそらく、今の漫画が失ったものを、75年の漫画が持っているからだろう。 ネットで今一番売れているのは、上原きみこの「炎のロマンス」。 これぞ少女漫画といわんばかりのコマ割りと大きな目がどうしてもなじめず、読んだのはつい最近のことだ。 主人公は、ドジで泣き虫の普通の高校一年生の女の子。 この子が素敵な男の子と出会い、次第に成長していくお話だ。 この設定はその頃の少女漫画お決まりのパターンで、当時の少女漫画の主人公はほとんどが似たようなタイプだった。 75年に週刊少女コミックに連載が始まるとドンドン人気が出てきて掲載誌の看板作品にまでなるが、 今では絶版でオリジナルの単行本以外では読むことが出来ない。 これがネットでよく売れる理由だが、どうしてこの作品が今でもそんなに読みたいのだろうか。
読んでいて気づいたことがある。 ここに出てくる男の子がみんなひたむきで、夢を持っていて、しかもカッコイイのだ。 確かにこの頃はまだ男が輝いていた。男が輝いていれば、女は幸せになれる。 ところが今の男たちはオジサンは勿論のこと、若い人も生き方に自信がなさそうだ。 そんな状況で女たちは、現実の男に背を向けて、過去のかっこよかったころの男に夢を託しているようにみえる。 それが、25年前の少女漫画が売れる原因の一つではないだろうか。 75年には、大和和紀の「はいからさんが通る」(週刊少女フレンド)、いがらしゆみこの「キャンディキャンディ」(なかよし)、 三原順の「われらはみだしっ子」(花とゆめ)、池田理代子の「オルフェウスの窓」 (週刊マーガレット)といった名作が続々と生まれていた。 まさに「少女漫画黄金時代」というにふさわしい年だった。
しかしこの年はまた、当時の子供たちに漫画が大きなトラウマを与えたときでもあった。 明るく、ひたむきに生きていけば、そこには必ず幸せが待っているという夢が破れ、 いまになってそれは幻想にすぎなかったことに大人になった女たちは気づいたのだろう。 漫画が子供たちにあたえる影響の最大のモノは、 実は少女漫画が子供に自然に刷り込んでしまう恋愛観、 人生観なのかもしれない。75年の少女漫画を買い集めている女性達は、 その後遺症に苦しんでいるような気がしてならないのだ。 (平成12年8月2日熊本日日新聞掲載以前の原文のまま)
参考文献 :竹内オサム「戦後マンガ50年史」石子順造「戦後漫画史ノート」等